心理学からみた人間の表と裏

猪木省三

 人間の表と裏というと,本音と建前とか,本心とうわべとかいったことを連想します。自分の本心と表面に現れる言動とは違うというのはよく経験することです。しかし,ここでは,そのような表と裏ではなく,人間の精神機能にみられる表と裏について,いくつかの面から述べてみます。

 錯覚という現象があります。本当は長さが違うものが同じ長さに見えたり,逆に,本当は長さが同じものが違う長さに見えたりします。長さ以外にも,形,色など,さまざまな場合に錯覚は生じます。よく注意してみないから,見方が正しくないから,このような錯覚が生じるのではありません。人間は目,耳などの感覚器官から外界の情報を取り入れます。その情報がそのまま使われるのではないのです。脳に伝えられ,そこで他のさまざまな情報や過去経験などと一緒にされ,脳で,ある種の修正が施されて,人間に感じられます。この修正があるからこそ,外界を立体的で,正立し,安定した状態で見ることができます。これを適合的知覚といいます。この修正が誤って施されると錯覚となります。脳での修正は適合的知覚という表の面と錯覚という裏の面とを同時にもっており,両者は文字通り表裏一体の関係にあります。

 忘却という現象があります。本当は覚えているはずなのに思い出せなかったり,時がたつと自分の経験も思い出せることが少なくなります。人と話をするとき,肝心のことが思い出せなかったり,試験のとき,必要なことを忘れてしまっていたりします。このような忘却は,できれば起こってほしくないことです。忘却が起こる原因には,時間の経過,他の精神活動から受ける妨害,有効な手がかりの欠如,などがあげられます。時間がたつと忘れてしまうのは困ることもありますが,多くの場合は,より最近の,より必要性の高い情報に優先権が与えられるともいえます。他の精神活動によって記憶が妨害されるのは困ることもありますが,そのときに行っている精神活動以外のことが勝手に思い浮かんでしまうことを防いでいるともいえます。手がかりが適切でないと思い出せないのは困ることもありますが,思い出す必要のないことが,てんでに思い浮かんでしまうことを防いでいるともいえます。忘却には必要な情報が思い出せないで困るという裏の面と不必要な情報を無秩序に思い出すことを防ぐという表の面とが同時にあり,両者は文字通り表裏一体の関係にあります。

 このように考えてみますと,人間の精神機能には,必ず,良い面と悪い面,役に立つ面と困る面,表の面と裏の面とがあるようです。子どもの反抗も,子どもの発達に不可欠な面と他に迷惑を及ぼす面とがあります。性格も,外向的性格・内向的性格など,いずれも,長所にもなり同時に短所にもなることがあります。人間の精神機能にみられるこのような表と裏のことを,ここでは心理学からみた人間の表と裏ということで述べてみました。

(おわり)